年未詳2月10日付 千宗易書状(榊原式部太夫宛)

ねんみしょうにがつとおかづけ せんのそうえきしょじょう さかきばらしきぶだゆうあて

概要

年未詳2月10日付 千宗易書状(榊原式部太夫宛)

ねんみしょうにがつとおかづけ せんのそうえきしょじょう さかきばらしきぶだゆうあて

文書・書籍 / 安土・桃山 / 富山県

千宗易(利休)  (1522~91)

せんのそうえき りきゅう

富山県高岡市

年未詳(天正15~19年)2月10日付/1587~1591

紙本・墨書

(本紙)縦30.3 ㎝×横35.1 ㎝、(全体)126.1×53.8、(軸長)59.1

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-307

高岡市立博物館蔵

千家茶道の祖であり、わび茶の大成者として知られる千利休(宗易)(※1)より榊原康政(※2)宛の書状と考えられる(※3)。
 本史料は高岡市の串田佐長氏(1992年頃没、享年89)が終戦前後頃に某所より購入したと伝わる。
 利休と康政はつながりがあり、天正14年(1586)6月、家康の使者として大坂城に遣わされ、利休・秀吉らより3日間にわたり茶を供された記録(※4)がある。
 年代は未詳だが、康政の式部大輔任官(天正14年(1586)11月9日)の翌年(本史料は2月のため)から、利休の死去(同19年(1591)2月28日)までと思われる。
 内容を意訳すると、「お手紙拝見しました。(あなた様が)慌ただしく(やっとのことで)ご在京されていらっしゃるにもかかわらず、不慮の出来事があり、御目にかかれず、面目ございません。諸事取り紛れておりますので、直接会ってお話いたしましょう。(追伸)ご丁寧なお手紙を頂戴し、重ねて御礼申し上げます。」となろうか。
 本史料は『大日本史料』、桑田忠親『利休の書簡』、小松茂美『利休の手紙』などに掲載はなく、新発見史料の可能性がある。

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【釈文】
端裏ウハ書「(墨引)  榊原式部太
夫(康政)殿人々御中 易」

 返々、御懇之御札忝奉存候、かしく、
御札拝見申候、扨々這々御在京候
処に、不慮之一儀候、不懸御目候て
無面存候、何も不調可遂無面候、
恐惶謹言、
 二 十日   宗易(花押)

【読みくだし】
端裏ウハ書「(墨引) 榊原式部太夫殿人々御中 易」

 返す返す御懇ろの御札(ぎょさつ)忝(かたじけな)く存じ奉り候、かしく。
御札拝見申し候。さてさて這々(ほうほう)御在京候ところに、不慮の一
儀に候。御目に懸けず候て無面(むめん)に存じ候。何(いず)れも調(ととの)わず面上(めんじょう)を遂ぐべく候。恐惶(きょうこう)謹言。
 二 十日  宗易(花押)

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【注】
※1 千 宗易(利休)(1522~91)
安土桃山時代の茶人。茶道(ちゃどう)の大成者。千家流(三千家)の開祖。堺の生れ。通称与四郎,宗易と号す。晩年は不審庵とも号した。初め茶の湯を北向道陳に学び,のちに武野紹鴎に師事。織田信長に仕え豊臣秀吉に重用された。1585年秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立し,1587年北野大茶湯をつかさどった。草庵風の茶室を完成し茶道を民衆の生活のなかに根づかせた。1591年秀吉の怒りにふれ切腹を命じられ、同年2月28日に切腹した。大徳寺に自像を置いたためなどとされるが,原因については定説がない。
(平凡社「百科事典マイペディア」)
ちなみに高岡関連でいうと、前田利長(『茶道四祖伝書』では利休七哲筆頭)、高山右近(利休七哲)は利休の高弟であり、前田利家もその教えを受けたとされる。

※2 榊原式部太夫(康政)(1548~1606)
安土桃山時代の武将。徳川氏の重臣。長政の子。幼名は亀丸,小平太。幼少から家康に仕え,姉川の戦い,長篠の戦い,小牧・長久手の戦いの功により,従五位下に叙され,式部大輔に任じられた。小田原征伐ののち,天正18年(1590),家康の関東移封に伴い,上野国館林10万石に封じられた。文禄元年(1592) 年以来秀忠に仕え,慶長5年(1600)秀忠が信州上田城主真田昌幸に阻止され関ヶ原の戦いに間に合わなかったとき,康政の陳謝によって許されたという。
(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。天正14 年(1586)11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、正三位に昇叙し、康政は徳川家懐柔の一環として同月9日、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。
(村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号)

※3 本史料が真筆と考えられる理由
駿河台大学法学部教授・黒田基樹氏からは「自筆とみてよいと思います。新出かどうかは明確には言えませんが、さしあたって桑田本・小松本には、収録されていません。」とのコメントをいただいた。また、堺市博物館主査・学芸員(さかい利晶の杜担当)の渋谷一成氏よりは、同館蔵利休書状3通と比較すると、俗に「ケラ判」と呼ばれる利休の花押の形状や、書き止めの「恐惶謹言」、端裏の上書(人々御中)などの筆跡もよく似ているとのご教示を受けた。また、石川県近世史料編さん室室員・塩﨑久代氏からも種々ご教示をいただいた。お三方にお礼を申し上げる。

※4 榊原康政と利休
芳賀幸四郎著『人物叢書 千利休』新装版(吉川弘文館)p194-95によると、康政と利休が接触した記録が榊原家に残っている。天正12年(1584)12月の小牧・長久手の戦い終結以来、秀吉は家康とは休戦状態にあった。秀吉は家康を懐柔し臣下の礼を取らせようとあれこれと画策したが、その第一手として同14年(1586)5月、秀吉は妹の朝日姫を三河岡崎の家康に嫁がせた。これに対し家康は返礼の使者として康政を秀吉の元に向かわせた。同年6 月7日から9日にかけて大坂城内で利休は自ら茶会を催して康政をもてなした。9日には山里の茶室に康政を迎え、羽柴秀長を相伴とし、利休ついで秀吉の点前で茶を供した。

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