米仲買商・十二野家資料
こめなかがいしょう・じゅうにのけしりょう
概要
高岡上川原町(現高岡市川原本町)の米仲買商・十二野家(十二野長次郎)関係資料。
関連リンクに資料目録あり。
資料目録№1-③の履歴書によると、十二野長次郎は安政5年(1858)6月10日生まれ。作成時(明治25年(1892)2月2日)には33歳8ヶ月で、高岡で明治9年(1876)3月から俵米売買営業を行い満16年が経過している。
また本資料からは長次郎が明治25年2月に高岡米商会所(のち高岡米穀取引所。下記参照)の仲買営業許可を受けたこと(№1-①)や、同年4月には肥料(肥物)商売営業の許可を受けたこと(№5)、また米価を報じる価格高低表(№3)を発行していた高岡新報社(北日本新聞の前身)の株主であったこと(№6)などもわかる。
【高岡米商会所(米穀取引所)】
近代富山県の経済を牽引した、高岡米穀取引所の前身である高岡米(べい)商会所は、明治18年(1885)1月に通町に開業した(同年10月に御馬出町に移転し、「六角堂」の愛称で呼ばれた)。
元々高岡は越中、加賀藩内の「台所」といわれるほどの経済都市であった。この根源は米取引場「米場」であり、その創設は藩都金沢より早い、万治~寛文期(1656~73年)頃とされる。しかし文政7年(1824)に藩に米場が停止されて以来、その復活は高岡、及び伏木などの越中商人の悲願であった。しかし、明治維新を迎えてもその願いは却下の連続であった。そこで伏木の廻船商・藤井能三や高岡ら越中商人、入善の政治家・米澤紋三郎(能三義弟)らの運動により、明治16年(1883)、富山分県を成し遂げた。その直後に出願し、同18年に漸く設立されたのが高岡米商会所である(初代頭取は藤井能三)。この年からすでに50.3万石の取引高(全国7位)があり、ピークは大正6年(1917)の928.1万石であった。
高岡米商会所は、明治26年(1893)7月に取引所法公布により株式会社高岡米穀取引所と改称。同29年(1896)11月、隣接地にあった高岡商品取引所と合併し、高岡米穀外五品取引所と改称した(のち高岡米穀外四品取引所と改称)。さらに明治35年(1902)11月に高岡米穀取引所と改称し、昭和14年(1939)7月に閉鎖された。
<参考文献>
・高岡市『高岡市史』下巻p547~564,昭和44年
・高岡市『たかおか-歴史との出会い-』平成3年 など
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